岡田有希子が亡くなった真相は峰岸徹!遺書代わりのノートが存在!

人気絶頂で自ら命を絶った岡田有希子が、亡くなってもう27年になるんですね。
生きていれば今年で46歳になります。
サンミュージックの相澤秀禎会長が亡くなって、今岡田有希子の死の真相が公になっています。
その真相は、噂されていた通り峰岸徹が岡田有希子と遊びで付き合ったせいだったんですね。

岡田有希子

サンミュージック会長相澤秀禎がすい臓がんで亡くなったのが5月23日、享年83歳でした。

相澤秀禎

相澤秀禎は、多くの女性アイドルを育てています。
しかし、サンミュージックに残ったアイドルはほとんどいません。

桜田淳子、松田聖子、早見優、香坂みゆき、そして岡田有希子。

サンミュージックの会長室にはまだ岡田有希子の写真を飾ってあります。
それほど、岡田有希子の死を悔やんでいたんですね。

岡田有希子が無くなったのは1986年4月8日でした。
その日の朝、岡田有希子は自宅マンションでガスで死のうとします。
これは未遂で終わったんですが、相澤秀禎は岡田有希子をサンミュージックの事務所に置いて様子を見ていました。

 

しかし、一瞬のスキをついて岡田有希子はサンミュージックの事務所が入っていた7階建てのビルの屋上から飛び降りてしまいます。

 

当時、岡田有希子の死の真相は分からず、峰岸徹説、神田正輝説、他殺説までささやかれました。

怪文書も流れましたが、これが神田正輝説です。
大物俳優が石原裕次郎、
Mが神田正輝、
超人気アイドルが松田聖子、
MTが峰岸徹です。

岡田有希子はある俳優(本当の『M』)と交際していた。
Mは日本を代表するある大物俳優の主催するプロダクションに属していた。
この大物俳優の愛人に超人気女性アイドルがいた。
大物俳優は女性アイドルとの仲を清算したくなり、Mに押し付ける形で結婚させた。
Mとの子を身ごもっていた有希子はMとの別れと堕胎を同時に強要された。
有希子最後のシングルの作詞を当の女性アイドルが担当していたことが拍車を掛けた。
有希子の死後プロダクションの有望株Mを守るためMTが身代わりに立てられた。
検死の結果、有希子は妊娠3ヶ月だったが警察に顔のきく大物俳優の兄がそれを揉み消した。
またこれらの説を補強するポイントとして有希子の事務所が大物俳優のプロダクションの影響下にあったこと。
MTはその後汚れ役の代償にプロダクションから仕事を保証され俳優として出世した。
女性アイドルは有希子の事務所の先輩でありながら葬儀に出席しなかった。
つくられたカップルゆえにMと女性アイドルは結婚当初から異様に不仲だった

 

しかし、岡田有希子の死後、相澤秀禎は遺書代わりのノートを見つけます。

それには、峰岸徹の名前が書いてあり、峰岸徹に恋焦がれる岡田有希子の気持ちや、その後に遊ばれたとわかってからの苦悩が綴られていたそうです。

 

岡田有希子は、当時18歳、そして峰岸徹は41歳でした。

峰岸徹

23歳離れたこの2人はTBSドラマ『禁じられたマリコ』で共演して親しくなり、男女の仲になります。
しかし、峰岸徹にとっては遊びだったんですね。

事件直後、峰岸徹は岡田有希子との関係を聞かれ、

「僕は兄貴のつもりでいたんですが、
彼女はそれ以上のプラスアルファがあったのかもしれない。
それが愛だったら、責任を感じます」

と言っています。

それを受けて、相澤秀禎は

「岡田有希子はプラトニックな愛に悩んで死んだ」

と答えています。

これは、亡くなった岡田有希子をこれ以上汚したくなかったから、あえて峰岸徹に合わせたんでしょうね。

 

2008年10月、峰岸徹は肺がんで亡くなります。65歳でした。

相澤秀禎は岡田有希子を弄んだ峰岸徹を憎んでいたそうです。
ノートを読んだからこそわかるその真相をしっていたからなんでしょうね。



3件のコメント

  • 佳代

    私が死んだ理由

    私は自分だけのことを考えて死を選びました。事の真相を知っている人もいると思うけど。

    私は本当に死ぬほど歌手になりたかった。そして実現しました。しかし、現実の芸能人としての生活は私のイメージしていたものとはかけ離れていました。本当に普通の歌手でいたかったのです。けれどデビュー当時からかわいいアイドル、岡田有希子としてのレッテルを貼られてしまった。

    デビュー2年目には半分以上限界にきていました。どこへいっても何をやるにしても私の理想としていた歌手ではなく、アイドル岡田有希子。。。でも自分で選んだ道、両親にはもちろん、友達、また私を一応支えている事務所にも相談などできなかった。同じアイドルの友達や仲間にも。。

    その悩みを唯一話せたのが、いや話したのが俳優の峰岸さんです。彼は私の悩みや岡田有希子を辞めたいことを知っていました。でも私が死んだ日の会見でも言いませんでした。素晴らしい人でした。

    相沢さん、死ぬまで私のことを思ってくれてありがとうございます。ご迷惑をかけましたが、私自身そうするしかなかった。

    会社や事務所が私にすごい期待をかけていることは健作さんからも聞かされていました。つらいの一言です。引退もできない。すぐに辞めたいのに。。。何か事件でも起こして引退しようかななんて。。でも私の顔は全国にもう知れ渡っていて。。。どっちにしてももう終わり。。生きてゆけない。。ものすごい有名人になっているということは特に2年目の終わりには実感していました。

    私は自宅で自殺をはかり、病院に搬送されました。助かってしまいました。本当につらかった。病院で号泣し続けていたのはもちろん死ねなかった悔しさです。

    福田さんと山崎さんが迎えにきました。悪魔にみえました。直感的にサンミュージック事務所の屋上はすんなり行けるなと思いました。私から退院後事務所に行くと福田さんに告げました。タクシーの中、そして社長室の中では妙に落着きました。安定剤をうたれたせいかもしれません。どうやって隙をみて屋上に駆け上がろうか余裕をもって考えることができました。

    峰岸さんにはふられてなんかいません。いい人でした。ただそれだげです。遺書めいたものは書きましたがふられたなんて書いてありません。また相沢さんも少しは私がもう辞めたがっていたことをうすうすわかっていたと思います。でもそれで死なれてしまったわけで、事務所で自殺ということと合わせて、サンミュージックとしてもダブルの汚点になってしまうことを恐れて、峰岸さんになすりつけたと思います。

  • 「愛をください」にお母様の手記が載っていますが、お母様は峰岸さんと娘が男女の関係にあった事を否定しています。
    有希子さんは「峰岸さんは現場でとても親切にしてくれてる」とお母様に良く話していたそうで、もし男女の関係にあったならそんなふうに私に話さなかったと、書いています。

    もともと有希子さんは空想しながら詩を書くのが好きだったようです。
    ノート類に書かれた内容も、真実を記した日記ではなく、空想の出来事だとお母様は分析しています。

    そういった意見も見逃してはいけないと思います。

  • 金山

    凄い!
    私もそう思いますよ

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